【はじめに|吊るしてあるだけで、背筋が伸びる服】
それは工具と並んで、
いつもガレージの隅に吊るされている。
袖の端がわずかにほつれて、
襟元には油がしみ込んでいる。
それでも、見上げるたびに
「よし、やるか」と思わせてくれる。
──Gジャンだ。
そのまま外へ出かけるわけでもない。
ファッションでもない。
だけど、なぜだろう。
この一着があるだけで、空間が“自分のもの”になる。
今回は、そんなガレージとGジャンの関係を、
少し情緒を込めて語ってみたい。
🔧 なぜガレージにGジャンなのか
作業着はいろいろある。
ツナギでも、パーカーでも、エプロンでもいい。
それでも俺は、Gジャンを選びたくなる時がある。
とくに、あの“リーバイス70505”──サードタイプ。
形はコンパクトで、前立てはシャープ。
胸ポケットは左右に揃い、ボタンは控えめ。
どこにも無駄がない、けれど無口な色気が漂うフォルム。
それを羽織るとき、
自分の中に小さな火が灯る。
「作業を始める」ときではない。
「踏ん張らなきゃならないとき」だ。
🛠 Gジャンは、着る“決意”だ
Gジャンを着るとき、俺は決まってちょっと迷う。
「今日は必要かな?」と。
「汚したくないな」と。
でも、結局手に取る。
それはつまり、“今日の自分に必要な心構え”を確認してるんだと思う。
火のそばに立つとき。
古い車の下に潜るとき。
折れかけた木材をなんとか直すとき。
デニムという素材の、あの確かさ。
“作業着”というより“着るための道具”。
袖に入ったクセや、アタリのついた胸元、
擦れたボタンが語るのは、過去の自分の背中だ。
🔩 よろめく日々に、Gジャンがくれる静かな芯
Gジャンを着ると、少しだけ気持ちが整う。
それはまるで、よろめきながらも立ち続ける背中の補強材みたいなもの。
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失敗したDIYのあと
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言い訳ばかりだった日の夕方
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なんとなく心が散らかってるとき
そんなときこそ、
Gジャンの袖を通すと、少しだけ「ちゃんとした人間」に戻れる。
いや、「ちゃんとしようとする自分」に戻れるのかもしれない。
🔥 火のそばに立てる服
キャンバスでもナイロンでもない、デニムという素材。
厚手の綿100%。無骨で素直な繊維。
だからこそ、火に強い。熱に耐える。油を吸って馴染む。
グリルの前でも、焚き火のそばでも、
黙って立っていられる“炎と共存する服”。
作業灯の下、煙とオイルの中、
黙々と手を動かすとき。
袖をまくったGジャンの重みが、心地いい。
🪵 ガレージとGジャンの「間合い」
ガレージでGジャンを着ていると、
“空気に合っている”と感じる瞬間がある。
・木材のささくれ
・油の染みた床
・使いかけの研磨剤
・パチッと弾ける火の粉
それらが全部、Gジャンの中に収まる。
パーカーだと少し頼りない。
革ジャンだと気取りすぎる。
エプロンだと背中が寒い。
Gジャンだけが持っている、“ちょうどいい間合い”がある。
📏 サードタイプという選択肢
“70505”。
リーバイスのサードタイプ。
そのデザインは、60年代末に誕生し、
70年代の労働者やミュージシャンに愛された。
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前身頃の切り替えが消えたことで“スマートさ”が増した
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ジャストサイズで着られる絶妙なバランス
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腰丈で作業性も高く、重ね着もしやすい
それが、“一番ガレージに馴染むGジャン”だと思っている。
現行品でも古着でもいい。
形がちゃんとしていて、袖口が柔らかくなっていれば、
もうそれは“着られる時間”だ。
🔚 まとめ|デニムジャケットのよろめき
Gジャンは強くない。
決して万能でもない。
だけど、あの服には“踏みとどまる力”がある。
擦れても、汚れても、
それでも“着たくなる”。
なぜか。
きっとそれは、Gジャンが「生きる」という行為の不格好さを引き受けてくれるから。
まっすぐ歩けない日も、
火がうまく起きない日も、
棚が歪んでうまく閉まらない日も、
──それでも俺は、Gジャンに袖を通す。
少しだけ背中が強くなる。
少しだけ手元が確かになる。
そして、
今日の“よろめき”もまた、
このジャケットの色落ちの一部になる。